水浴びをしているのだろうか。川辺の丸い背中が目についたので、アレスは近づくと、その背に右足でツンと触れた。
「姫様……?」
振り返りもしないのに、まるで知ったるとばかりにアレスを呼び慣れた敬称で呼ぶ。
疑問形になるのは彼女かどうかの確信が持てないからではない。何をしているのか?そう問いたいからだ。
アレスにとってはそれが心地よく、同時に無性に腹立たしいことでもある。
だから彼への返事を拒否した。
その代わり、ほんのわずかに背中を押して、低い声で問いただす。
「クロ、あんたその背中なんのためにあると思ってんの」
「…………」
返事はない。
この男の主である自分ならば許されてしかるべきことだが、仕える身の分際でだんまりがまかり通るとでも?
蹴りたい。蹴り飛ばしたい。
川に突き飛ばして、胸倉を掴んで、バシャバシャと揺さぶって、その顔を殴りつけてやりたい。
グッと拳を握り込んだ。
できるものならとっくにそうしている。
できないから、こんな、らしくもない中途半端な触れ方をしているのだ。
「姫様、」
「『貴女をお守りするためです』なんて抜かしやがったら、はっ倒すだけじゃ済まさないから」
クロートの露わになった背中にはいまだ痛々しい傷痕が残っている。
これは昨日受けた傷であり、カリネラの回復魔法によりここまで治癒したのだ。
優秀な魔道師の彼女がいなければ、今こうしてアレスと会話を交わすことも、一人で水浴びをすることも、ましてや動き回ることすら叶わなかった。
今頃、毛布にしがみつき、もんどりうちながらとんでもない激痛と戦う羽目になっていただろう。
その方が良かったかもしれない。
そうすれば、いくら痛みに鈍感なこの男であろうと少しは懲りたのではないか。
お前の大事な大事な姫様を、命を張って守ることの愚かしさを。
旅の道中で森を通過することなど日常茶飯事であるし、そこで魔物に遭遇するのはもはやお約束の一つだ。
「おうおう、威勢がいいことで」
アレスはニヤリと笑うと剣を抜いた。
飛び出してきたのはペンドラーの亜種だろうか。
長い角は獲物を突き刺すために鋭く発達している。口と思しき部位は細かな牙がずらっと並び、粘性の液体が滴っていた。ポタリと落ちると、地面に生える草がシュウと音を立てて茶色く枯れた。
なるほど、強い酸性の毒か何かか。
毒に耐性のあるアレスだが、用心に越したことはない、とジリと距離を取った。
タイミングを計っていると、茂みからフシデによく似た魔物がワラワラと沸いて出てきた。
子分か。どう見ても先に出てきた魔物が親玉だ。フシデの方は適当にいなして、親玉の討伐を念頭に置こう。
「デカいのはあたしが片す。君たちは雑魚の相手を頼むよ。」
ヒラリと左手を振って、背後で構えるパーティの仲間に合図を送った。
ダンッダンッと紅の放った銃声。小さな魔物が次々と弾け飛ぶ。
その横では丸っとした硬い身体が宙に浮き、次の瞬間にはさらなる空の彼方へ吹っ飛ばされていた。クロートの浮遊魔法によるものだろう。
もう一人、パーティにはカリネラがいるが、彼女が何もせずに傍観を決め込んでいるのはいつものことなので別段気にすることではない。
さて、とアレスは目の前の敵を見据えた。変わらずグロテスクな見た目だ。
まったく、そうおっかない顔をされてはこちらの士気も上がってしまうではないか。腕が鳴る。
一歩踏み込んで、腰を落として地を蹴る。脚を払おうとしたが、速い。高く跳ばれた。
やはりペンドラー種なだけある。図体の割に素早い。
背中を取られてなるものかと、すぐさま身体を翻す。回転した勢いのまま腕を振り回した。斬るというよりも、叩く要領で魔物の胴体にぶつける。
キシャア
よし、ヒットした。
呻き声を上げながら、魔物の身体が横滑りして木の幹に衝突する。
動きが鈍ったところで、もう一撃。アレスは正面に立つと剣を頭上に振りかざした。
「え」
魔物の目玉が二つ、ギョロリとアレスの双眸を捕らえた。牙の揃い並ぶ口がパカリと開き、糸のようなものが吐き出される。
一瞬の出来事であった。アレスはその時、金縛りにでも遭ったかのように避けることも、腕でガードすることもできなかった。
抜かった。
後悔するも時すでに遅し。唯一取れた行動。それは目を瞑ることだけだった。
(あれ?)
覚悟した痛みも違和感もない。
パチリと両目を見開く。
燃えるような臙脂の瞳に飛び込んできたのは、長い前髪と陰気な隈が特徴的な見知った従者の顔。
(こいつ、何やってんだ)
真っ先にアレスの脳裏に浮かんだのはそんな言葉だった。
そのままズシリと凭れ掛かる重い身体に押されるようにして、アレスの身体も地面に倒れ伏す。
肩越しに見たのは、ドロリとした液体にまみれた爛れた背中だった。布も皮膚もその液体が焼いているのか、酷い悪臭が鼻を衝く。
「おい、大丈夫かクロート!」
紅の慌てた声が聞こえて、アレスは、「ああそうか。やはりコイツはクロなのか」と納得した。
考えるよりも先に身体が動く馬鹿なところは、まさしくアレスがよく知るクロートだ。
だが、魔物の一匹もまともに相手にできないと見くびるのは、主を信頼する彼らしくない。
「はあ?何やってんの。何、舐めたことしてくれてんの!あんたも分かってんでしょ!コイツが吐き出したのは毒!あたしは毒ならほとんど効かない!」
バカじゃないの!と、アレスは自分の上で眉の一つも動かさない男に向かって怒鳴り散らした。
タダじゃおかない。タダじゃおかない。このままくたばろうものなら冥土の淵まで追いかけてギッタギタにしてやる。
「お顔が……」
「はあ?」
(この段において、こいつは顔の心配をしているのか?このあたしの?)
日ごろ、アレスは自分のことを美少女だと主張している。
だがそれはあくまでネタに過ぎず、周りにいるもっとずっと可憐な乙女たちに比べれば見劣って当然で、ごくごく平均的な顔立ちであることも自覚している。
野蛮で下品で可愛らしさとは程遠いから、自分が「美少女」と胸を張れば張るほど周りは笑ってくれるのだ。
そんな芸の基本すら理解していないとは、呆れてものも言えない。
腹が立つ。
「カーリー、早くこいつ治して」
「……いいだろう。今回ばかりは処置が遅れるほど厄介なようだからね。労働は気乗りしないが仕方あるまい。」
アレスは昨日の出来事を思い出していた。
一晩経っても怒りは収まらない。けれどいつかころっと忘れてしまうに違いない。怒りの感情なんて一過性のものだから。
それなら、こいつの傷はいつ完治するのだろう。こいつはいつまで覚えているのだろう。
視線を落として、薄い背中だ、と思う。
こんなので守ろうだなんて、おこがましいにもほどがある。
「あんたの背中はね、あたしに蹴られるためにあるの。生涯、ずっと。あんたが嫌って言っても関係ない。あたしがそうしたい限り、ずっとずっと」
つい足に力が入ってしまいそうになり、アレスはやっと己の右足を地面に下した。
「分かっています。」
振り向いて立ち上がる。
そうすると、アレスよりも背の高いクロートでは彼女を少しだけ見下ろすような形になる。
アレスは思う。
この身長差ですら煩わしい、と。
だから、クロートの前に立ち、彼の長い前髪を思い切り引っ張った。
「わっわっ」
バシャリ。バランスを崩したクロートが不格好に川べりに膝をつく。
「その顔、ほんとうざい」
バチン。頬を叩いた。
「あたしより背高いのもムカつく」
バチン。もう一発叩いた。
「ひめしゃま……」
「今はこれで我慢してあげる。」
蹴ってやりたい。蹴り飛ばしてやりたい。
クロ、あんたがいないと折れそうになる自分がいるの。
なのにどうして分かってくれないの。いくら身体が丈夫でも無茶が過ぎれば死んでしまうのに。
幽霊じゃ叩いてもぶっても全然楽しくない。
だから早く治せ、この駄ブタめ。
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素直に心配もできない姫でした!
蹴りたいのに蹴れないのは早く治ってほしいからだよね。なんだかんだで黒魔くんが痛い思いするの嫌なんだよね。自分が殴って痛い思いさせるのはいいんだけどね。
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