悪寒が走った。
『せーんぱいv』
実際に声をかけられたわけではない。
だが、あの女がそう言っているのは分かった。
あの目力。50メートル以上はある俺とアイツの距離など物ともしない。
圧倒的な迫力と鋭さをもって俺を射る眼光は、まさに蛙を捉えた蛇そのものだ。
俺は頬を引きつらせ、己の顔に意味もなく笑みを張り付けた。
それしか術がなかったのだ。
そのとき俺の中にあったのは恐怖。そうただ純粋な恐怖だった。
「は、はは」
顔は笑ったまま、俺は女から一歩一歩着実に距離を取る。
己の内にある怯えを悟らせぬよう、じわりじわりと。
左足を後方へ一歩。ゆっくりと重心を後ろへ傾けながら今度は右足。
この動作を7回繰り返した。
(今だ!!)
今までの緩慢な動きからは想像もできぬほど素早く踵を返し、猛ダッシュを決め込む。
走った。
俺はただひたすら走った。全力で走った。
目の前に迫り来る階段は二段飛ばしで駆け上がった。
きっと物凄い形相をしていたに違いない。しかし周囲がこの顔をどう思うかなど構ってられないのだ。
「はあ…はあ…」
俺は肩で息をしながら充足感に浸っていた。
勝った。俺は恐怖に打ち勝った。解放されたのだ。あの眼光から。
拳を強く握りしめ、天へと突き上げる。
男子寮の廊下の中心で、俺は声にならない勝利を叫んだ。
「邪魔だ」
「うおっ」
心地よい達成感に揺られていると、突如空から声が。
と、実際はそんなわけはなく、背後の気配に気付かなかっただけなのだが。
「ああ、諸恋」
そこにいたのはルームメイトの諸恋だった。
ここは男子寮の廊下なのだから、偶然居合わせてもなんら不思議ではない。
「パントマイムの練習は構わないけど、場所を選んだらどうかな?」
そう言って腕を組み換える諸恋。
「いやいやこれはパントマイムとかじゃなくって」
「そのくらい分かるよ。」
勘違いを訂正しようと口を開けば、即座に切り捨てられる。
あんぐり口を閉じられずにいると、呆れたような溜息までも吐かれる始末だ。
「いい子だと思うけどなぁ」
「…………は?」
何の前触れもなく、しかししっかりと諸恋の言葉が俺の耳に届いた。
わざとらしいほどにはっきりとした発声で、だ。
だが、脈絡がないにもほどがある。
「誰のことだか分からないほど鈍くはないだろ?」
「ぐ……」
そう、ヤツの言う『いい子』が誰なのか、皮肉にも約一名思い当たるのだ。
しかし釈然としない。なぜコイツの口からアイツの存在が取り沙汰されるのか。
「見てたのか?」
「いや。あいにく僕が見てたのは、肩で息をする君の姿だけだよ。」
「じゃあなんで」
「推理すれば分かるさ。君が校内を全力疾走するケースはいくつか挙げられる。
部活、友人とのおふざけ。しかしその最たる原因は他にある。さあ、なんだろうね?」
口元に人差し指をあて、にっこりとほほ笑む諸恋。同性の俺がぞっとするほど綺麗に笑う。
本日二度目の悪寒に肩を震わせ、唇を噛んだ。
考えるまでもない。先ほど脳裏に浮かんだのと同一人物。
諸恋が俺の口からソイツの名前を言わせたいのは一目瞭然だ。
「……なるほど分かった。そういうことか。さすがご高名な諸恋告様、大した洞察力だよ」
だからといってソイツを名指しするのは気に食わない。諸恋の思惑通りになるじゃないか。
俺は適当な拍手でもって諸恋を称えてやると、さっと横を通り過ぎようとした。
これで会話はお終いだ。その合図として肩を叩いてから。
「待った。」
が、それが余計な行為だった。
「僕はまだ君に伝えたいことがあるんだ。」
諸恋に手首を掴まれたのだ。
これの指すところはつまり、俺に歩みを再開させ前進することは許されていないということ。
「なんだよ……?」
おそるおそる声を絞り出すと、諸恋は答えた。
「あの子との交際考えてみてはどうだ?」
何度かその言葉を咀嚼した。何度も脳で反芻した。
だがそれでもなお俺の脳回路の処理が追いつかずフリーズした、のは言うまでもないだろう。
はあ!?!?!?
誰が、誰と交際するって!?!?!?!?
例えば明日君と恋をするなら、
フリーズしていた俺の脳も、ところどころ諸恋の追撃を拾って記憶している。
「いい子じゃないか。君には勿体ない。世界中探したって君を好きになってくれる女性は彼女だけだ。」
とかなんとか。失礼極まりないことをいけしゃあしゃあと。
ならば、だ。
仮に、だ。
もし仮に、俺がアイツと付き合ったとしよう。
どうなる?俺の生活は、学園ライフはどうなる?
まず朝。男女共用の談話室で待ち合わせちゃったりなんかして、教室棟まで向かうのか?
カップルがよくやるあれを。毎度呪詛を送っていたが今度は俺が受けるハメになるのか?
冗談じゃない。
「学年が違うから会えなくて寂しい…」なんて裾をちょんとつまんで上目遣いでこっちを見てくるのか!?
なんだよそれ!朝から興奮すんじゃねえかふざけんなっ!
で、昼だよ。
購買でパン買って人気のない裏庭のベンチで一緒に昼飯を食べる。
いやいや待てよ。弁当か?手作り弁当か?アイツ、結構家庭的っぽいよな。少なくとも不気味なほどに献身的なのは証明済みだ。
そうか手作り弁当が来るのか。「アーンv」か。「先輩、ほっぺにご飯粒ついてますよ」…か。
いいな……いやいやいかん!!ダメだろ!!すっげえダメだよ!!
ご飯粒とか言うけど、きっとすげえ量の弁当用意してきて全部食わすつもりだよ!ご飯粒一つも食べ残しを許さねえつもりだ!!
恐ろしい…なんて恐ろしいんだ……!!
何より手作り弁当で男心を最高潮に弄んだ上での量の暴力という狡猾さ…!
恐ろしい……。
そんなこんなで午後の授業、部活とこなして、放課後にまた再会する。
時と場合によってはキスをしたりもありうるわけか?
ふ、ふーん……まあ、なんだあれだよな。黙ってりゃ顔は可愛いよな。
百歩譲って!性格を差し引けば!可愛くないこともない……うん。
キスするときはもちろん黙ってるわけだしな。
ありだな……いやいやいかん!!ねえよ!!ぜってえねえから!!
「結局なしなのか?」
「おどどぅおあああおえ!?!?」
「唾が飛んだ。」
「おあ、わ、わりぃ」
場所は再び廊下。ただし今度は教室の前、だ。
例によって先と同一人物。諸恋だった。
「お前、エスパー?」
「今度ばかりは違うよ。推理でもましてやエスパーでもなく、単なる君の不注意。」
「……と言うと?」
なんとなく嫌な見当はつくのだが、ぐうの音を押し込んで聞いてみる。
「君の妄想が端々声になってたよ。」
「ちょっ、うわっ、マジ、うわ」
結果、メンタルに50のダメージ。想像以上の恥ずかしさにまともなリアクションも取れない。
「で?」
が、そんな心中を察してかいないのか。いや察した上でだろう。
諸恋が容赦なく精神攻撃を続行してくる。
「ナ、ナンノコトデショウ?」
「はぐらかすな。藤堂由々子との交際についてだ。なしなのか?」
必殺・外国人のフリも呆気なく無意味と散る。果ては言い逃れもできない剛速球のストレートだ。
俺は腹をくくった。
「だから言ったろ。なしだって。ないない。ぜっっってえ……ない!!」
「ふーん…なんで?」
諸恋は表情一つ変えない。
「え、いや、だから…」
その落ち着き払った態度にこちらが気圧されてしまう。
「その、あれだよ……あいつストーカーじゃん!!」
最後の方は声が裏返るというこの格好の悪さ。我ながら涙が出そうだ。
「付き合ってからも同じだと思うの?」
「う……」
言葉に詰まる。
こいつの言う通り、俺が避けるわ逃げるわするから追い駆け回す帰来があるように思えるのだ。
「まあ、僕はどっちでもいいんだよ。君にその気がないならね。
それに今のままの方が楽しいこともあるだろうしね。」
諸恋は俺の肩に手を置いて、さらにこう続けた。
「勇気が足りなかったら僕が背中を押すからさ」
そう颯爽と去りゆく諸恋の背中の心強さと、必要以上の勘の鋭さを恨んだ気持ちはきっと忘れないだろう。
そして俺は自分に誓いを立てた。アイツにだけは助けを求めまい、と。
実のところ、俺は認めたくない自分の気持ちに気付いている。
視界の不鮮明なもやの中で、俺はずっと立ち止まっていた、あの日までは。
この霧から脱するにはどうしたらいいのか、方法は思い浮かんでいたのにそれを実行に移さなかった。
だが、ある時、つい魔が差して、そう例えるなら酔った勢いで、行動に移してしまったのだ。
追いかけられる側じゃなくて、俺から近づいて行ったらどんな反応をするだろう?
早朝、たまたま体育館を覗くと、部活の練習をしている藤堂がいた。
足を怪我したのか、うずくまっていた。周りには誰も人がいなくて、介抱できるのは考えうる限り俺だけだった。
つい魔が差して、ヤツは手負いだ、今ならばと、もやの中を手さぐりで進んでしまった。
「じっとしてろ。折れてないか?」
「……玄階、先輩…?」
「そんな苗字たぶん俺だけだろうな。それよりだから動くなって!」
「え、あ…は、はい!」
よく覚えている。
茹でダコみたいに真っ赤な顔と、風邪を引いたわけでもないのに高い体温と、上ずった声。
その声音につられて自分の声までも引っくり返りそうになるのを必死に誤魔化した。
気を抜くと鮮明になった五感全てが、藤堂という女の子の体一ヶ所に集約されそうになる。
彼女のか細い声やシャンプーの匂いや何かを感知するたびに俺がカッコ悪くなる、ことに気付いた。
特にアイツの顔を見ちゃダメだ。最高に照れてどうしようもなくなるから。
藤堂をおんぶして保健室に着いた頃には、もやの中に一筋の光が差していた。
見て見ぬフリをしていた気持ちに否が応でも気付かされる。
他の女子ならどうってことないのに。
そもそもだってこんなに美味しいチャンス、おんぶじゃなくてお姫様抱っこをしたがるだろう。
下心満点のスケベ男子でいるだけでいいんだ。太ももとか胸とか、そういうの気にするだけでいいのに。
藤堂はそれをさせてくれないから、やっぱり苦手だ。
「あのさぁ、諸恋」
「ん」
「俺、やっぱ今のままがいい。」
「……ふーん」
「藤堂の顔間近で見て平常心保てる自信が全くもって、ない」
「度胸ないな」
「ほんとにな。はぁ…笑えねえや」
拝啓、藤堂由々子様。
今しばらくは俺と追いかけっこに興じてはくれないでしょうか?
いつの日か、いつの日か、不肖のこの身が漢になるその日まで。
もしまだ君が俺を好いてくれていたのなら。
……なんて、意気地なしのワガママだよなぁ。