6月の夏至。日が一番長く昇っている日だ。
12月の冬至からだんだん伸びて、6月のそれを境に今度は少しずつ短くなってゆく。
夏はこれからだというのに。暑さは厳しくなっていくのに。
まるで反比例するかのように日は縮む。
たとえば仕事を終えた帰り道、たとえばオフィスから眺める窓の外、その風景はいつも妃沙良の胸をしめつけた。
もうすぐ午後7時を迎えようという時間帯。
日が沈み、けれどぼんやりと沈んだ太陽が街を揺らす。街灯がぽつぽつと、陰るアスファルトやコンクリートを照らす。
ドライバーは自動車のライトを点けようか点けまいか迷っているのか、光の粒はまだらに散る。
夕暮れの中で、夜がゆっくりとこちらに歩いてくる。
どうしてだろうか、冬にはちっともそんな感覚などないのに、夏になると夜が怖い。
怖い?いや、少し違う気がする。
寂しい、切ない、物悲しい…
どれもいまいちピンと来ず、首を傾げながらぼんやりした街灯の下を歩いた。
自動車のエンジンの音がするのに、店の派手な明かりがちかちか光るのに、
まるで世界に一人だけ取り残されたような感覚。
この感覚を表す適当な形容詞が見つからない。
それは胸の中で捉えどころのない煙のように肺につかえる。それなのに、決して不快ではなく、むしろ不思議な充足感を与えた。
見えない縄できりきりと胸を縛られているよう。だけど、溢れるのはひんやりと冷たくてそれでいて心地良い何か。
妃沙良はそれが涙の形なのではないかと思っている。
目から流れることはないし、当然頬を濡らすこともないけれど、きっと心はその涙の海に抱かれているのだ。
ぷちゃんぽちゃんと浮かんでいる。
押しては引いていく波の鼓動が気持ちいい。
ああ、安心する。
それなのに、それなのに、
どうして涙は一向に温かくならないのだろう。
自宅のアパートに着いた頃には夜はすっかり更けていた。
空はただの黒でしかなくて、あの灰青いカーテンのようなグラデーションは見る影もない。
窓からわずかに覗く町明かりは、点々と煌々とそれぞれの住居を平和に照らしている。
中にはまだ残業をする会社員のいるビルだってあるだろうに、妃沙良の脳に映るビジョンはどこにでもあるような一家団欒の風景だった。
テレビをつけて、バラエティ番組を見ながら、笑っている。
それが羨ましいのかなんなのか知らないが、妃沙良は自宅に着くと決まってテレビの電源を入れ、バラエティ番組にチャンネルを合わせた。
そうすると、ちょうど入れ違いに、先ほどまでの灰青い充足感がしゅるしゅるとしぼんで、やがて消えてしまうのだった。
テレビの中の芸能人が喋る。妃沙良は笑う。部屋には一人。
どちらかといえば狭いアパートの一室なのに、自分ひとりではあまりにも広いと感じた。
思えば、8月の午後7時前はいつも一人で迎えているな、と思う。
仕事が定時に終わらず、上司や同僚に手伝ってもらうことはある。そして雑務に没頭したまま7時を迎えて「夜」となる。
そういう日だってあるけれど、妃沙良にとってそれはあってないのと同じだった。
そういうことでは、ないのだ。
あのきゅんと切ないようななんとも言えない感覚。
それをだれかと一緒に感じた事がない。
もし、となりにだれかいたら、果たして自分はそれでも「世界に一人きり」なんて思うのだろうか。
「おい、妃沙良。」
「…うわっ!!あ、は、はははい!!!」
「なんだ?なにか考え事か?まあ、上の空なんてしょっちゅうだから今さら驚かないけど。さっさと終わらせろよ、定時で帰りたきゃな」
「す、すみません…。」
またやってしまった、と、まともに仕事に集中することさえできない自分を情けなく思いながら、つい癖で時計に視線を送ってしまう。
時刻は午後4時30分を少し過ぎたところ。まだまだ日は高く、むしろ屋外に小一時間立ち尽くしてでもいたら日射病になりそうな天候だ。
この青く澄んだ空が、ギラギラと照らす太陽が、まるで幻想のようなあの薄暗い風景を作り出すなんて、全く結びつかない。
ふと、彼女に会いたいと思った。
彼女と一緒にあの時間を迎えたいと思った。
それはふっと湧いた好奇心。それと、先の見えない恐怖。
もし自分の心に、それを後悔し、時を巻き戻してリセットしたくなるような変化が起こったとしても、
彼女とならばそれを受け入れ、乗り越えて、前を向いたまま歩けるような気がした。
怖いけれど、大丈夫。
だから、試してみたい。
妃沙良は彼女にメールを送った。
今日の夕方、会社が終わったら会えないか、という旨を。
「さらちゃんからデートに誘ってくれるなんて珍しい」
そう彼女に言われて、ああそうか、これは『デート』なのか、と妃沙良は今になって自分の大胆な行動に顔を赤くする。
「どうしたの?突然。こうして僕に会いたくなるほど寂しかった?」
「やっ…あの…」
あながち外れではない。確かに彼女に会いたいと思ったから約束を取り付けたのだ。
しかしそこに、甘さや恋慕の気持ちは全くなかった。
寂しい、とも違い、あえて理由づけるなら、彼女を『嵌めるため』だ。
その後ろめたさにまともに顔を見ることさえできない。
「いいよ、無理に聞き出したりしないから。ただ、僕はこうしてさらちゃんと過ごせて嬉しい。」
彼女はにっこりと微笑む。
自分より1つ年下なのにどうしてこうもスマートなんだろうか、と妃沙良はその気遣いに胸が締め付けられる。
少しでも彼女と並んで歩くことに自信を持ちたくて、気の利いた文句を探す。
「う、うん、私も嬉しい。」
結果、これだ。
行動も鈍くさければ、頭の回転だって悪い。どうしてこうも自分は出来の悪い人間なんだろう。
手をついて、膝をついて、頭も地面に押し付けて、そのまま沈んでしまいたい。
「あのね、さらちゃん。今ここ人がたくさんいるでしょう?」
気を引くためか、彼女は妃沙良の手をとってそう話しかける。
妃沙良たちが今いる場所はオフィス街の通りだ。自分と同じような会社帰りのサラリーマンやOL、学生の姿もちらほらとうかがえる。
「うん、そうだね。」
いきなりなんの話だろう、と妃沙良は不思議そうに赤い双眸を見つめながら答える。
「そんなところで抱きついたりキスしたりしている人を見るとどう思う?」
相変わらず話の論点は見えないが、妃沙良は『抱きつく』や『キス』という単語を聞いただけで耳が熱くなるのを感じた。
聞いただけでこれだ。そんな場面を目撃してしまったりしたら、自分は果たしてどうなってしまうのか。
「ま、まともに見られないと思う…。すごい大胆だなって…。」
「そうだね。恥ずかしいよね。それにきっとモラルもなってないんじゃないかなぁ。ラブラブなのはいいことだけど。」
「うん…」
確かにこんな公衆で。もしもそれが自分だとしたら…恥ずかしくてすぐにでも逃げ出したくなるだろう。
手をつなぐことさえ躊躇われるのに。誰と、というと、隣を歩く彼女なのだが。
同性なのだからそのくらい気にしなくてもいいはずなのに、意識してしまってからはどうしてもダメだった。
「さらちゃんだったらそんなこと考えられないでしょう?」
短い思考に耽っていると、彼女が覗き込むようにこちらを見ている。
その思いがけない至近距離に吃驚し、反射的に体が後退する。
「うそ…考えてること、読まれたかと思った…」
「さらちゃんは顔に出やすいもの。」
間違いなく顔が赤くなっている。だってそもそも火照っているのだ。
今更だと分かっているけれど、手のひらで顔を覆って彼女に見えないように隠した。
「ね、さらちゃんはそうでしょう。でも僕は違う。触れたくてたまらなくて、出来ることなら頬に唇にキスを降らせたい。人の目なんて気にならない。」
伸びる指が白くて長くてとても綺麗だと思った。
溶けそうな言葉に、それでもなんとかかろうじて立っていられるのは、彼女と少しばかりの距離を置いていたからだろう。
耳元で囁かれでもしたら、きっと卒倒していた。
「だってこんなに可愛いのに」
もう無理だ。
たまらず、バッと顔を伏せた。両手なんかじゃ隠せない。こんな顔とてもじゃない、見せられない。
「さらちゃん。僕ってこうやって困らせてばかりでしょう?よくないって分かってるから直したいんだけど、これがなかなか治らない。」
あはは、と困ったように笑う声が聞こえてきて、やっと頭をもたげることができた。
その声色があまりにも歳相応の女の子らしく可愛くて、思わず頬が緩んでしまう。
ああ、可愛い。愛しい。
鈍感な自分でも、ここまで話してくれれば彼女が何を伝えたかったのか分かる。
つまり、自分も完璧な人間じゃないから、さらちゃんは落ち込まないで、堂々と隣を歩いて。そういうことなんだろう。
なんて優しい子だろう、とつくづく思う。
そんな子を理由や目的はどうあれ、まるで試すようなことはできないと思った。
だから今からしようとしたこと。なぜ彼女を呼んだのか、すべて話すことにした。
言葉足らずで説明の苦手な自分では、全部伝えきれるか自信はないけれど。
それに自分の中でもこの胸のもやもや、上手く整理がついていないのだ。
それでも、今の自分にできる精一杯で伝えたい。その一心で話し始めた。
とくにここからの情景が綺麗だ、というものではないので、通りを行く人の迷惑にならないような場所で立ち止まった。
どうしよう、困った。対象が夕焼けや星空ではないから、どこを見て、とも言えない。
「雰囲気を…感じ取って、くださ、い…」
だんだんと尻すぼみになる。自分は何を言っているのか。
思わずこぼれそうになった溜息。けれどそれは吐き出される前に彼女に遮られた。
「ん、分かった。」
午後6時半。
辺りはだんだんと暗がりに飲み込まれていく。
明かりがぽつりぽつりと灯りだして、自動車の何台かはライトをつけ始めた。
この感じだ、と胸が苦しくなってくる。
外界の景色がもたらす感覚なのに、外界と切り離されてどこかの離島に打ち寄せられた流木のように漂う。
押しては引いていく涙の波。ぽちゃんぷちゃんぽちゃんぽちゃん。
『世界に一人だけ』
そうだ。やはりそう感じる。
おろちちゃん
波に漂う私。
涙の海は広くてどこまでも深い青。
だあれもいない。一人で揺れている。
『ああ、安心する。』
きっとそう言うことで寂しさをまぎらわしていたのだ。
涙の海はいつだって冷たくて、ぎゅうぎゅうと胸を締め付けるばかりで、いつしか私はその息苦しさに慣らされていた。
寂しいと口にしたところで誰も側に居てくれない。
帰宅する部屋はいつも暗い。仕方ないから自分でパチンと明かりを点ける。
一人で夕飯を食べる部屋はいつも静か。仕方ないからバラエティ番組にチャンネルを合わせる。
「おろちちゃん、わたし、一人暮らしすること、ほんとはすごく心細かった。」
「うん」
「もう2年目でしょう、ってお母さんは言うけど、まだ全然慣れない。仕事だって…不安」
「うん」
「一人は寂しいって、弱音吐いたら、仕事も全部ほっぽって親に泣きついてたと思う。逃げたらきっと楽になるよね、それは分かるの。」
「うん」
「でも、おろちちゃん、」
「僕には弱音吐いて泣きついていいんだよ。」
やっぱり自分は顔に出やすいのかな。
彼女はまるで思考を読んだかのように、続くはずの言葉に限りなく近いそれを返してくれる。
ただ、少し違うの。
「手、つないでくれる?それだけでいいの。」
今はそれだけでいい。それだけで救われる。
彼女は柔らかく微笑んで、手を握ってくれた。両手でそっと包み込むように。
涙の海に足りなかったのは人肌だったのかもしれない。
単純に、温度が低いから温かくならないのであって、包み込んだら温度は上がる。
波に浮かんでゆらゆら揺れる。
隣には大好きな彼女。
なんて、なんて幸せなことだろう。
彼女は別れ際、たまには部屋に泊まりがけで遊びに行ってもいいかと聞いてきた。
一人では広すぎるとも発言したから、それを心配してくれたのだ。
優しい子だな。また思う。
「うん。来てくれたら、すごく嬉しい。」
上手く笑えていただろうか。
気の利いた言葉は言えないけれど、せめてこの気持ちが私の分かりやすい顔に表れていてくれたら、と願う。
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漠然とした不安を抱えるときってあると思うんです。漠然としすぎててそれが不安なのか寂しいなのか、それにも気づかなくって…みたいな話、です。
うん、わかめだ。(訳が分からないというのをわかめと表現したい)
朝を迎えるだとちょっと大人な雰囲気ですけど、迎えるのは夜^^
最後のやり取りが裏(このサイトにはないですけど)フラグになればいいと思った。お泊り!お泊り!