大楠柳次郎という男には妻と二人の息子がいる。
妻と連れだって何年過ぎたかもう数えるのも面倒になったが、
息子たちが生まれた日に植えた柿の木はずいぶんと背が高くなった。
秋になるとそれぞれ実をつける。鳥はよくよく柿の木に詳しく、甘柿である片方ばかりを突きたがる。
弟の柿の木は渋柿だった。
干し柿にしなければ食べられない自分の分身に、幼い足を何度もその幹に蹴りつけていたのを、柳次郎は懐かしく回想する。
上の息子は柳次郎の植木屋を継がず家を出て行った。
数年が経った。勘当したというのに、長男はのこのこと柳次郎の家を訪ねた。
隣には高慢そうな、端正な顔立ちの女が立っていた。
高圧的な視線で柳次郎の家の玄関、庭を睨め回す。
柳次郎よりも一回りも二回りも若いというのに、その威圧感に彼の握り込んだ拳は汗でにじんだ。
「悪くない。」
若い女は凛と通る声で無感情にそう言うと、柳次郎の顔を、そして隣にたたずんでいたその妻へと視線を送った。
「私の遺伝子が汚される環境ならば何もせずに引き返すところだったが…許可しよう。
豚、連れて来い。」
それだけ言い捨てると女は背を向け、玄関の前に止めていた車に乗り込んだ。
もう一度こちらへ来ないということ、それは初対面の柳次郎にも伝わった。
女に「豚」と呼ばれた柳次郎の一番目の息子は、背中を丸めながら車へと駆け寄る。
訳が分からなかった。だれかに説明を求めたかった。
知りもしないということを承知で、柳次郎は妻の瞳を覗いた。
彼女はゆるく首を横に振り、妻の瞳の中の人もまた同じ動作をして、初めてお互いの混乱を知った。
息子は何をしているのか。こんな小間使いになるために家を出て行ったのか。
悲しかったのか、悔しかったのか、はたまた怒りだったのか呆れだったのか、
言いようのない感情が渦を巻いた。
豚と呼ばれた小間使いは車の後部座席のドアを開けた。
なにか話しかける動作で、柳次郎は車内にまた違う人物が乗っているのを察知する。
中から出てきたのは、まだ小学校に上がるかどうかといった幼い少女だった。
柳次郎の息子の腕にしっかりと細い両腕を絡ませ、ぎこちない足取りで柳次郎たちのもとまで歩み寄ってくる。
なにかにおびえるようなその怪訝な表情であっても、
柳次郎には少女が自分にとってどういった存在なのか、考えるまでもなく理解できた。
(ああ、この子は私の孫だ)
今車の助手席に居るのが少女の母親なのだろう。今目の前にいるこの男が少女の父親なのだろう。
息子が少女の名を「エンブ」だと、自分の娘なのだと説明している声は、確かに柳次郎の耳には入っていた。
しかし、柳次郎はそれをどこか上の空で聞いていた。
妻が剥いた、自分の柿の木になった甘い実を頬張る姿を、どうして今になって思い出すのか。
心から嬉しそうに誇らしげにかぶりつくランドセルの背中も、まな板からひょいと盗んで階段を駆け上がる軽快な音も、
柳次郎は、それと同じ人物の無機質な顔立ちと重ね合わせては泣きそうになった。
息子は最後にこう告げた。
「娘を預かってほしい」
「いつまで」とはっきりとした期間を一言も口にする気のない男に、柳次郎は断るすべなどないのだと悟った。
車の吐き出すエンジンの音が、耳をどんなに澄ましたって聞こえなくなってゆく。
柳次郎は、足の裏から途方もない不安が体を侵食していく悪寒に震えた。
視線の先には頼る腕のなくなった幼い少女が、家の前の道路で呆然と立ちすくんでいる。
口を真一文字に結んで、じっと前方を見据える。
(一番不安なのはだれか。
そんなことも分からないほど私は愚か者なのか?)
柿の木の枝が揺れた。熟れた柿の実が落ちる。
季節は冬に差し掛かっていた。
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どんまい私…はは
これもし読んだ方いらっしゃったらかなりの勇者か物好きですね…もしいらっしゃいましたら本当にお付き合いくださりありがとうございました!!