ヒルダは迷っていた。
先ほどから、立ち上がっては座り、立ち上がっては座るを繰り返している。せわしなく指をいじってはいるが、ただそれだけでそこに生産性はない。
増えるのはため息ばかり。この辺りだけ二酸化炭素の濃度が濃いのではないか。そんな気さえする。
夏期休暇で故郷に帰省したヒルダは、父親からとある催し事の話を聞かせてもらった。
それは地元で開催される夏祭りであり、主催者が大のナカガミ皇国ファンであることが高じて、出店される屋台の内容や飾り付け、参加者の服装に至るまで、全てナカガミ皇国一色なのだという。
クラスメイトにもナカガミ皇国の出身者はいる。ヒルダは彼の顔や服装を思い出して、それはなんて素敵なお祭りなんだろうと胸を躍らせた。
「ヒルダも行ってみたらどうだい?そうだ、シャンタールの彼も誘ったらいい。」
なんて、父親がにっこりと微笑むものだから、ヒルダは飲みかけのレモネードを危うく吹き出してしまうところだった。
シャンタール想いの優しい彼ならば、ヒルダが誘えばきっと快い返事をくれるだろう。
無口で、表に出る感情の薄い人だけれど、その実とても他人思いなのだ。小心者で年下のヒルダのことも妹のように可愛がり心を砕いてくれている。彼の行動の端々からそんな気遣いをヒルダは感じ取っていた。
自分の気持ちに素直になれば、お祭りに行きたい。
けれど、彼の気持ちを慮れば、軽率に誘うことなどできなかった。
父はこうも言っていた。
「今回で2回目なんだ。前回はとても盛り上がってね。各地からたくさんの人がやって来たそうだ。今年は昨年よりも華やかな花火を打ち上げるらしいよ。それはそれは、盛況だろうねぇ」
彼は人混みが苦手だ。
ところが祭りの会場はといえばどうだろう。人、人、人。右を見ても左を見ても、わいわいと賑やかに人が行き来している。きっと二人並んで歩くことさえ難しいだろう。
そんな中に連れて行くなんて、まるで拷問ではないか。
ヒルダは本日何度目かの深いため息を吐き出した。
散々迷った末、ヒルダはついに一通の手紙を出した。
ほどなくして届いた返信に、ヒルダはらしくもなく歓声を上げ、ぎゅっと胸に抱いた。父親からなだめるように背中をさすられたのは、ちょっぴり恥ずかしかった。
それと同時に、やはり拭えようのない罪悪感がじわりと胸を浸したのだ。
数日後、少ない荷物と手土産とともに彼はヒルダの生家にやって来た。
父があんまり懇ろに世話を焼いてもてなすものだから、やり過ぎではないか、鬱陶しがられているのではないか、とヒルダは終始そわそわと肝を冷やす羽目になった。
「遠いところからわざわざ来てくれて、今日は本当にありがとうございます。」
キンと冷えたカモミールティーを差し出しながら、ヒルダは小さく頭を垂れた。
この日のために淹れておいたとっておきの茶葉だ。だが、それだけでは心もとなくて、お菓子の載った皿を彼が手を伸ばし易いように、心持ち手前に引き寄せる。
「いや、君が喜んでくれるなら……いや、なんでもない。いいんだ。シャンタールのことを知るいい機会になった。」
「? そう思ってくれますか?ありがとうございます!」
じっと耳に意識を集中していたものの、呟くような声量だったため最初の部分はほとんど聞き取ることができなかった。それを、残念に、申し訳なく思いつつも、続くルーの言葉にヒルダはほっと胸を撫で下ろした。
また、彼が自分との関係をより良いものにしようと、前向きに捉えてくれていることも嬉しい。
「ユカタはこちらで用意しているので、良かったらそちらを着てください。」
その日、例の夏祭りがついに当日を迎えたのだ。
シャンタールであるルーを誘うことに抵抗のあったヒルダであったが、父や古くからの知り合いである姉代わりの女性にも説得され、ついに己のわがままを通すことを選択した。
受け取った返事が断わりのそれでなかったことに安堵の息をついたものの、彼の顔を見るまではぐっすり眠ることもままならなかったのだ。
だから、こうして会って話した彼の醸し出す雰囲気が柔らかで穏やかであったことは、他のどんな手土産よりも喜ばしいものだった。
覚悟はしていたものの、想像を上回る人の多さであった。
地元がこんなに賑わうことなどそうそうないだろう。驚きから口がぽかんと開いたままになってしまう。
「凄い混みようだ」
「迷惑でしたか……?」
会場に着いて早々、彼の口からこぼれた呟きに、ヒルダはへなりと肩を縮込ませた。やはり彼にとってこの人の多さは辛いことなのではないか。
「……何が?」
「あ、えっと、ルーさん、人の多いところ苦手じゃないですか?だから、誘ったの迷惑だったんじゃないかって…ごめんなさい」
「まさか。ああ、ただ、」
そこで急にわっと人の声が大きくなって、続く言葉がかき消されてしまった。
振り向くと、ヒルダと歳の近い少年少女たちのグループが通り過ぎて行くところだった。彼らも彼らなりにお祭りを楽しんでいるのだ。もう少し静かにしてくれたら、なんて口が裂けても言えない。タイミングの悪さを呪った。
彼はなんと言ったのだろうか。
推測するには判断材料があまりにも乏しかったが、ただ一つ言えることは、それはヒルダにとって“良いことではない”ということ。
前の言葉を否定する意味の『ただ』という接続詞。
「迷惑だった?」を「まさか」と言って否定してプラスになった。けれど、それを「ただ」と言ってさらに否定した。プラスの否定は、つまり“マイナス”。
ただ、あまり長居はしたくない。
ただ、二人きりだとは思わなかった。
ただ、君にその格好は似合わないと思う。
たとえ心の中で思っていたとしても、傷つけるようなことをわざわざ言いはしない。彼の温かな心根を理解していても、胸を占めるのはネガティブな台詞ばかり。
ふわりと浮いていた気分も、シュンとしぼんでしまった。これ以上落ち込むのが嫌で、なんと言ったのか聞き返す勇気も湧かない。
自然と目線も下を向いてしまう。
どんな屋台があったかはちっとも覚えていないが、自身が履いている鼻緒の飾りは見なくても描けそうだった。花の飾りが可愛くてこれを選んだが、今では自分には似合わずヘンテコなんじゃないかと思えてならない。
「わっ」
それは突然だった。
気付いた時には視界がぐらりと傾いていた。片足が浮いて身体のバランスが取れず転びそうになる。だが、結局転ぶことはなく、代わりに何かにドンっとぶつかった。状況がうまく飲み込めぬまま、衝撃を感じた左肩の方へと振り向く。
「?!」
すぐ近くにルーの顔があった。
なぜ?どうして?と、思考回路はさらに混線する。フリーズした体が次に行動を移せたのは、ルーの一言が起因となった。
「だから嫌だったんだ。」
目の前で何かがパチンと割れた。
ヒルダは両手でルーの胸をドンと押すと、遮二無二駈け出した。こういう時ばかりは神様が味方してくれるらしい。ほとんど誰ともぶつかることもなく、上手いこと人の波を縫って走り抜けることができた。
彼はヒルダを引き止めたのかもしれないし、そんなことはなかったかもしれない。少なくともヒルダの耳には届いていなかった。
自分が嫌い。自分が嫌い。自分が嫌い。
刻み込むように刻み込むように、ヒルダはひたすらに同じことを唱えた。
そんな思いをさせたかったのではないのだ。彼にも楽しんでほしかったのだ。彼と一緒なら楽しくなると、そう胸を弾ませていたのに。
迷惑ばかりかけてしまう。自分が情けない。自分のことばかりだ。彼の気持ちを察してあげることもできないなんて。
楽しませる努力はした?どんな話題を振れた?これをしてみませんか?あれなんて美味しそうじゃないですか?彼の好きなものを探すことだってできたでしょう?
いじけて、俯いて。そんなつまらない子と一緒にいたって楽しいはずがない。
(ルーさんが、わたしと居ることを『嫌だったんだ』と思うのは当たり前だ。)
自分が嫌い。
本当に傷ついているのは彼の方なのに。泣いて楽になろうとしている弱い自分が嫌い。
そこはしんと静まり返っていた。少し離れたところで賑やかな祭り囃子が鳴っているからか、余計にもの寂しく閑散として見える。
手頃な大きさの岩に腰かけて、大柄な少女は膝を抱えていた。
「やっと見つけた。」
暗闇から発せられた声は、明らかに自分に向けられたものだと分かる。
一番聞きたくて、聞きたくなかった声。
失礼だとは分かっていても、ヒルダはそれに対して返事ができなかった。
「君を探しながら、反省してた。俺はいつも言葉が足りなくて、君に迷惑をかけてばかりだ。」
その言葉に、ヒルダはハッと顔を上げた。
「そんなことない!それはわたしの方です!」
現にこの状況が如実に表している。勝手に傍を離れて、会場のあちこちを探させた。迷惑をかけたのはこちらだ。
「違うんだ。俺が君に勘違いをさせてしまったから、君は走って行ってしまったんだろ。正直に話す。聞いてくれ。幸い今はとても静かだから遮るものもないだろうし」
長い前髪で彼の瞳は見えなかったが、真摯に自分の目を見据えてくれているのを感じる。
ヒルダはきゅっと己の両の拳を握り込んだ。
「はい。聞かせてください。」
ルーは力強く頷くと滞ることなく言葉を紡いだ。
父親の言ったとおり、お祭りの花火はそれはそれは華やかだった。
花火とはあんなに大きく花開くものだったろうか。
時間が止まればいいのに。いつまでも、いつまでも見上げていたい。ああ、でも時々は、隣を盗み見たいとも思う。
人の心とはなんて単純なんだろう。
いや、わたしだけなのかもしれない、とヒルダは苦笑いをした。
あんなにささくれていた気持ちも、今では嘘のように浮かれている。
彼は勘違いだと罰が悪そうな顔をしていたが、驚いたことに本当にただの勘違いだった。
あまりに人が多いから、ヒルダが誰かにぶつかってしまうのでは、と気が気ではなかったらしい。君の身体は大きいし、そのくせおっとりしたところがあるから、と。
彼が“嫌だった”のは、『ヒルダが誰かにぶつかってしまうこと』だった。あの突然の衝撃は、それを避けるためにルーがヒルダの体を引き寄せたことによる。
こう言っては偉ぶって聞こえるかもしれないが、本当にお互いに言葉が足りない。と、同時に、気持ちを通じ合わせることの難しさと大切さを改めて思い知らされた。
ヒルダは空を仰いで、花火が打ち上がる音を聞きながら、強く思った。
もっと、もっと、話をしなきゃ。
じきに花火も終わるだろう。
そうしたら、もう一度屋台巡りをしたい。わたしが今欲しい物を伝えたい。あなたが今食べたい物を教えてほしい。
そうして知った『あなた』を一つ一つ大事に胸に抱き寄せて、いつまでも覚えていたい。
ヒューー、パラパラ。
最後の花火がこの日の夜空をいっとう眩しく彩った。
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