テテテテテ。
興常は忘れ物を思い出し、短い四つ脚を器用に動かしながら自室に向かっていた。その際に居間の前を通り過ぎるのだが、今日はそのふすまが開け放たれていた。
そのこと自体はさほど珍しいことではない。朝早い現在は風もあり涼しいが、午後に向かって暑くなりそうな、晴れ晴れとした陽気だったからだ。
室内に一瞥をくれ、数歩進んだところで、踵を返した。
ふすまが開いていた。それは珍しくない。だが、その中で横たわる人物の姿は、少なくとも興常の記憶の中では初めて見る光景だった。
声をかけても良かったが、問題の人物がこちらに気付いていないのをいいことに、ほんのわずかな悪戯心が芽生えた。
音を立てずに畳を踏み、ちょうどよいところで後ろ脚を蹴って跳び上がる。くるりと一回転して着地するのは、白い髪が広がる背中。
「わっ!!」
突然背中にドスンと降ってきた衝撃に、居間で寝ころんでいた雪は声を上げた。
「お、おきつねさんっ…!!」
背中に乗る小さなキツネを落とさないように、また潰さないように、首だけをできるかぎり後ろに向ける。
「いい反応だ。」
大きく目を瞠る雪の表情に、興常は満足げに頷く。
「普通に声をかけてくれたら良かったのに……」
雪は眉を垂らして小さくため息をこぼした。
すぐに退いてくれるだろうと、しばらく彼の様子をじっと見つめていたのだが、移動する素振りがない。それどころか、脚を折りたたみ、お腹と顎をぺたんと雪の背中にくっつけているではないか。
これは…どちらかと言えば、居座る気満々なのでは…?
「あ、あのぉ……興常さん?」
「どうした?布団でもねえのに寝ころんでるなんて。アンタにしちゃ珍しいな」
降りないんですか?という意味を込めて声をかけたのだが、どうやら通じなかったらしい。
興常が他人の気持ちに鈍感なのは承知の上なので、雪も今さら傷つきはしない。さくっと彼の問いかけに意識を向き直し、なんと答えたものかと思案する。
「その、涼しいかなって…」
「……ふぅん」
確かに歯切れの悪い返答になってしまったが、対する興常の妙な間と素っ気ない返しが不安にさせる。
興常は鈍感な割に、変に敏い時がある。今回に関してもそうだ。嘘をついたわけではないが、なんとなく気恥ずかしくて本心は隠した。それを悟られた気がしてならない。
「違ぇな。で、理由があんだろ?」
トン、と雪の背中を叩く興常。
窓もふすまも開け放しているから、風通しは申し分ない。午前中の涼やかな空気が残る今、ひんやりとした畳に救済を求めるほど暑いとは感じられない。
ましてや、雪は気安く床に寝転がることをよしとはしない。そういう性格だ。
以上、興常なりの考察により、雪の返答に違和感を覚えるに至った。
案の定。興常には、本当の理由が別にあることが見透かされていた。
雪は観念して、白状することに決める。
「ふと、気になったんです。興常さんから見える世界が。だから真似をして、低い視線になるように寝転がってみたんです。ただ、それだけで……ほんとに思いつきで…子供っぽいですよね…」
話すうちに恥ずかしさが増してくる。雪の声は尻すぼみになってしまった。
「そうか。」
興常は腰を浮かすと、背中から肩のあたりまで移動した。手の平で顔を覆ってしまった愛しい少女の綺麗な形の耳を、ツツと舐める。
「ひゃっ」
情けない、と沈みかけた気持ちはどこへやら。雪は瞬時に頬を真っ赤に染めて、舐められた耳を押さえた。
「どうだ?俺と同じ目線の世界は」
そんな雪の様子も意に介さず、興常はやはり勝手に話を進めてしまう。
少しは落ち着くための時間をくれたっていいのに、と内心で頬を膨らませながら、渋々と思考を切り替える。
「なんだか、色んなものが大きく見えて。世界が広くなったようだなって…そんなふうに思いました。」
「大きく見えるっつうのはその通りだな。だからってのもあるが、俺ぁな、普段は雪のことももっと遠くに感じてる。」
「……そんな……」
興常はなんてことのないようにさらりとその言葉を放ったが、雪にとってはいくらかショックなことであった。
だって、こうして毎日一緒に生活して、挨拶をして、ご飯を食べて、休みの日には畑仕事をしたり、買い物に出かけたりして、自分にとっては誰よりも一番近くにいるのに、遠いだなんて。
「遠い、ですか…?わたしは、ここにいますよ」
肩口に乗る興常の耳をふわりと撫でた。そのまま彼を両手で抱え上げながら、うつ伏せから仰向けの状態へ体を反転させる。
寂しいとなじりたい気持ちがちょっとでも伝わればいい。そう願いながら、そっと胸に抱き寄せた。
「そうだな。今はこんなに近い。」
ぺろりと桃色に色づいた薄い唇に触れる。彼女は蕾がほころぶように可憐に笑った。
今はこんなに近い。
少し前まではつい立て越しでしかまともに会話もできなかったのに。アヤカシにトラウマを抱える泣き虫の彼女が、半妖である自分とこんなにも触れ合うことを許してくれる。
それのなんと、得難いことか。
首筋に鼻先を埋めると、甘く柔らかな香りが肺を満たした。ぐいぐいと頬をすり寄せる。
興常は体中に熱く滾った血が巡るのを感じた。何度か経験のあるこの前兆。
「なあ、雪。……いいか?」
「え?……あ!興常さんっ!そんな、だってまだ朝、んむっ」
雪の言葉はぴったり合わさる興常の唇に塞がれ、吐息となって飲み込まれた。
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