憧れだったこの学校に通い始めてから、そろそろ1年が経つ。
ああ、この1年でいろんなことがあったな、なんて感慨にふけっている余裕はあいにく今の自分にはなく、
私は眉間に皺を寄せて世界史の問題集とにらめっこをしている。
「なんで分からないの?」
頭上に降ってきた声に、私は反射的に顔を上げる。
目の前の人物を認めると、さらに眉間に力が入った。
最悪だ。今一番会いたくない人間に見つかった。
「人の脳みそが皆あんたみたいに優秀だと思わないでよ。」
これ以上ないしかめ面で返事をしてやると、再度問題文に思考を没頭させる。
今のはなしだ。なかったことにしよう。
そうだ、私は、今多少の会話を交わしたこの男とは出会っていない。
私は今までも今も一人この空き教室で勉強をしているだけだ。
ようやっと負い目を感じることなく勉強に集中できる環境を見つけた。
こんな男に静かで快適な私のオアシスを奪われてたまるか!
そうして腹をくくった私が編み出した作戦がこれである。
『無視し続ける』
何を言われても、何をされても、絶対に反応しない。
私は大仏なのだ。徳の高い仏だ。何事にも動じない強い精神力を持っている。
それはあらゆる煩悩を打ち消し、思考は完全に無となる。悟りを開いた私は…
よし、なんか乗ってきたぞ。いける。
「おーい」
「……」
「おーい」
「………」
「ねえ、返事してくれないの?もしかして怒っちゃった?」
「…………」
「…ふーん。ずいぶん生意気な態度するね。それならさ、俺にも考えがあるけど?」
結果は惨敗であった。
『無』どころか(思えばそもそもこれでは問題を解くことはできなかった)、
男の声がいちいち耳に入り、脳で言葉に変換され、声は焦りと冷や汗に還元されるのだ。
まだ肌寒い気候だというのに、背中にしとど汗がにじむのを感じる。
「とりあえず落ち着け」と自分に言い聞かせ、先ほどの男の台詞を咀嚼する。
(…か、かんが、え…?)
いったいなんだろう。
それが『何』なのか見当もつかないが、確実に言えることは一つ。
その『考え』がこちらに有利に働くことはまずない。
意地になって沈黙を貫き通したのが馬鹿だった。
無視を決め込めばどうにかなるものではない、ということはとっくに分かっていたにも関わらず、
一旦むきになると、なんとしてでも自分の意思を曲げたくない、と思ってしまう。
それは完全降伏を認めた現在も継続中で。
私は結局その「考えがあるけど?」宣言にも、沈黙で答えた。
「そう、それが答え、ね…じゃあ遠慮しないから」
名前を出すのも癪だと思っていたので、『男』としか表記していなかったが、
どうやらそんなささやかな抵抗をしていられる余裕もない…のかもしれない。
男、黒兜迅というのだが…とにかくそいつの腕が動いた。
私は嫌な予感がして咄嗟に口元を手のひらで覆った。
過去に何度かあったのだ。ふいにその…唇を奪われるということが。
すっと黒兜の気配がし、そしてすぐにそれは去って行った。
「…え?」
てっきり両肩を掴まれるものだと身構えていたのだが、肩にかかる力は自分が力んだそれだけで。
当然口も手のひらも無事だ。
驚くほど軽い体に妙な違和感を覚えながらもまぶたを開く。
そこで初めて自分が目を閉じていたこと、そして…
視界が急にぼやけたことを知った。
つまり今まで身につけていた眼鏡を奪われたのだ。
ぼやけた輪郭のまま目の前に突っ立っている、この黒兜という男に。
私は典型的な近視で、近くのものを見るには不便ないが、遠くを見るときには眼鏡が欠かせない。
全く見えない、というわけではないが、黒板の文字が見えずに苦労する程度には眼鏡に依存している。
黒兜に1メートル程の距離を取られている今、彼の表情を正確に読み取ることは困難だ。
だがしかし勘で分かる。
あのすました不敵な笑みを浮かべているのであろうことくらい。
「返してよ」
「いや」
「それがないと困るんだけど」
「言ったよね、遠慮しないって。俺を無視したお仕置きだよ」
よくよく考えてみれば確かに、黒兜はそれほどひどいことをしたわけではない。(嫌味にしか聞こえなかったが)
声をかけただけの相手に対して執拗に無視を続けた自分の方が、明らかに否があるし悪質だ。
意地だプライドだなんだと言わずに、ここは素直に謝罪するのが賢明だろう。
「ごめん。私が悪かったからそれ返してよ。ほんと困るの」
手を差し出すが、そこに馴染みのフレームの重さは感じられない。
やはりそう簡単に許してはくれないようだ。
「あのさ」
「なに?」
ガタンと椅子を引く音がして、黒兜が前の席の椅子を寄せ、そこに腰を下ろしたことが分かった。
それにだいたい表情が判別できるくらい近くに黒兜の顔があるし。
くるくると赤いフレームの私の眼鏡をいじりながら、心なしか低いトーンで話を続ける黒兜。
「俺たちってさ、付き合ってるんだよね?篝は俺の彼女なんだよね?」
何を突然、と面喰いながらも、内心の動揺は隠せない。
「あ、うん、たぶん…」
「なんで『たぶん』?今だってそうだよ。彼氏が来たのに邪険に扱うし、嬉しそうな素振りは微塵も見せない。
それどころか『出て行け』だ。しかも言葉にすることすらせずに、態度で、ね」
「う…」
それがまだ、いつものように余裕綽々のお高くとまった表情なら良かった。
しかし黒兜の目は全く笑っていない。
ぴしゃりと凍る場の空気に、私はただうつむくことしか出来なかった。
「俺の事嫌いなの?」
黒兜の声は氷のように冷たかった。
これが冗談なら「はいそうです」と笑い飛ばせたのに。
「嫌いなのか?」と問われれば、答えは「そんなはずがない」だ。
確かにこの学校に来たばかりの頃の私だったら、「大嫌いだ」と即答していただろう。
でも今は、ふと我に返ると一瞬前の自分が無意識に黒兜のことを考えていたりするし、
月組の前を通れば教室内に彼の姿を探してしまう。
他の女の子と楽しそうに話しているところを見れば嫉妬までする始末。
それこそ油断すれば一日中彼の事を想って終わりそうなほど。
おかげさまで勉強には身が入らなくなり、ただでさえ予習復習をしないと追いつけない授業に
息切れぎれしがみついている状態だった。
自分がここの生徒の大半のように、『勉強しなくても出来る天才』ならば、今ここにいる必要はない。
こんな隠れ家などいらないのだ。きっと、普通に黒兜と机を並べて勉強している。
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無駄に長い…が、しかしまだ続きます。
続きからは砂吐き用のバケツ用意、というかキスシーンは普通にあります…。
わたし爆発してくる!